I❤SAKAMOTO

 

知れば「比叡山坂本」が好きになる

最澄、織田信長、明智光秀。坂本の盛衰に深く起因する歴史上の人物たち。
坂本があゆんできた歴史を知れば、もっともっと比叡山坂本が好きになる。

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知れば「比叡山坂本」が好きになる

最澄、織田信長、明智光秀。坂本の盛衰に深く起因する歴史上の人物たち。坂本があゆんできた歴史を知れば、もっともっと比叡山坂本が好きになる。
坂本が好きになる

古事記に記述される日本最古の神社のひとつ、日吉大社。

 
日吉大社は比叡山の麓に鎮座し、全国にある日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮として知られています。創建は紀元前91年と言われ非常に古く、平安京遷都の時にはこの地が京の表鬼門(北東)に当たることから、鬼門除けや災難除けの社として崇敬を受けてきました。また、最澄が比叡山に延暦寺を創建した際に天台宗の守護神としても崇敬されるようになり、天台宗の本山の天台山国清寺に祀られていた山王元弼真君にならい、山王権現とも呼ばれるようになりました。
境内には約40ものお社があり、全ての神様を総称して「日吉大神」と呼びます。


明智光秀ゆかりの西教寺。

 
西教寺は飛鳥時代の618年に聖徳太子によって開かれたと伝わります。それから50年ほど経った667年大津京が開かれたとき、天智天皇から「西教寺」という寺号を賜りました。約10万坪の境内に42の堂塔伽藍が建ち並ぶ立派なお寺でしたが、織田信長の比叡山焼討ちの際に炎上してしまいます。その直後に築かれた坂本城の城主となった明智光秀は、西教寺の檀徒となり復興に大きく力を注ぎます。1582年にこの世を去った光秀は、一族の墓とともに境内の片隅にひっそりと眠っています。


1200年の歴史をもつ おごと温泉。

 
坂本の隣町・雄琴にある「おごと温泉」は、平安時代に最澄が開湯したといわれ、人々の疲れを癒す湯治場に発展しました。大正時代には本格的な温泉地として開発されて現在に至ります。おごと温泉の旅館やホテルは全て、水道水を混ぜる事なく、源泉を使用したお湯を引いています。泉質はph値9.0と、高いアルカリ性単純温泉で、神経痛・筋肉痛・冷え性や疲労回復に効き、入浴後の肌質がなめらかになります。


最澄が創建  比叡山延暦寺。

 
延暦7年(788年)最澄が比叡山に創建した寺は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待を受け、年号[延暦]を寺号に賜りました。最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧」を育成しなければならないとして、比叡山にこもり修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧を輩出することになりました。特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育み、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。
延暦寺の隆盛は、山麓の「坂本」に繁栄をもたらしました。


坂本の盛衰。

 
鎌倉時代以降の重要な交通手段は船でした。日本最大の湖「琵琶湖」は、東国や北陸からの物資運搬の重要幹線として大きな役割を果たしていました。京都方面に物資を運び出す湖西の玄関口となったのが「坂本」です。
北国海道(西近江路)と比叡山への道が交わる、坂本の隣町・比叡辻に馬借・車借と呼ばれる運送業者が集住していました。土蔵・酒屋などの金融業者や問丸と呼ばれる運送に携わる商人も多く見られ、坂本は門前町であるとともに、日本を代表する経済都市へと成長していきました。
1434年延暦寺の仏僧たちが室町幕府と対立したことから、将軍足利義教は諸大名に命じて坂本を攻撃させ、坂本の町は兵火によって焼かれます。これは幕府と対立するまでの力を延暦寺や坂本の町が持っていたことを示す出来事でした。比叡山延暦寺の最盛期には3000にも及ぶ寺院があったと伝えられていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、1571年織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、山上山下とも炎に包まれ壊滅的な被害を受けることになります。その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や天台宗の大僧正 天海の尽力により、延暦寺は再興されました。


石積み職人集団  穴太衆。

 
坂本の隣町・穴太[あのう]一帯に古来より居住し、自然石を巧みに組み合わせて石垣をつくる穴太衆積みの技法を口伝で継承してきた穴太衆は、最澄が比叡山に延暦寺を創建するにあたり、比叡山上の堂塔建設に力を貸したと考えられています。彼らは最澄とともに比叡山に登り、開墾のための土木工事を請け負い、延暦寺の各種堂塔伽藍の造成、基礎石垣、登山道の土留石垣、水田整備に伴う石垣畦、井戸の構築などを通じて、石積みに特化した石工集団を形成していったのではないかと考えられています。
織田信長の比叡山焼討ち後の後始末で、石垣を崩そうとしてまったく崩せず、その石垣の堅牢さを知った信長は1576年安土城築城に際して穴太衆を呼び寄せ、高くて丈夫な城壁を築きました。穴太衆の技術は、安土城の城壁普請という実績によって、諸国の築城の際に求められるようになり、穴太衆の名前は全国に轟き渡るようになりました。